物理的領域の因果的閉包性


現実的視点で見る 『あの花』

2011-06-25 2011


感動的なラストを飾った 『あの花』。
この作品をただの夢物語としてではなく現実に近い話として捉えるとどういうことが見えてくるのか?

まず不満とかではなく現実的に考えて府に落ちなかったのが、めんまの両親とじんたんの父親、そして花火師の反応。
大人の代表ともいえる登場人物。めんまの父親はゆきあつの土下座で簡単に花火を作ることを許し、めんまの母親は結局じんたんを信じ花火を見てある種の区切りがついたかのようにも見えた。
そしてじんたんの父親が息子を責めない・叱らない・咎めない理由。普通なら大きな懐で息子を見守るいい父親像に思えるが、単に母親を失って息子まで失うのが怖かっただけなのかもしれない。
めんまの母親に止められたからといって子供に言い訳をし、花火を作ることになってからもその行為に疑問を持ち注意することもない花火師。どの大人も頼りない。

超平和バスターズの面々が行う言動はどれも通常の成長からすれば完全に逆行していることばかり。ならもっと突き放して大人と子供の格差を描いたほうがよりその言動の痛みが増す。
めんまの父親はゆきあつの土下座を見て 「いつまでバカげたことに付き合うつもりなのか?」 とか呆れてもいいし、めんまの母親は花火を見てさらに憤慨してもいいくらいだ。
じんたんの父親も本当に息子の成長の為を思って見守っている確証を見せてもいいし、花火師も 「そんなママゴトはやめろ」 と注意してもいいと思う。そのくらい子供じみた行為をやっているんだから。

もっと言えば、めんまの姿が見えること自体ただの思い込みで幻覚・幻聴を見聞きしていただけと結論付けても話の展開上少しもおかしくはない。
願いを叶えてほしいなんて都合のいい言い訳をくっつけているだけで、本当は自分が見たいから見えていただけとしたほうがもっと痛い子供になるし、過去の重さが増してくる。
描きたいのは超平和バスターズの成長なんだからじんたんたちだけ救われれば済むこと。大人たちから阻害されたってじんたんたちが大人の気持ちを理解する年齡になってから謝罪し和解したとすればいいだけ。

ならなぜそんな描き方をしなかったのかを考えると、話を重くなりすぎないようにするため、もしくは話数的に困難でなるべくキレイに収めたかったからかもしれない。
実際重い話になりすぎていないしキレイにまとまっているから多くのアニメファンに受け入れられることになったのだろう。ゆきあつの言動が話題になり笑える程度だったから良かった。

若い視聴者は幻想的で夢のある部分ばかりを見ているのかもしれないが、この作品の重要な部分は 『めんまは自分自身の投影』 だということ。
じんたんたちの負の要素、見られたくない自分の姿を死んでしまっためんまの姿に置き換えて見ていた。または見ようとしていたと考えることが大事だと思っている。
めんまが成仏して生まれ変わること。それはすなわち自分自身が子供から大人へと生まれ変わることと同意なのだ。自分自身がどれだけ自分と向き合い乗り越えられるのか?

現実は思っているほど甘くはないし幻想でも夢でもない。それをファンタジー要素を盛り込んで伝えたかったのだろうと思う。
単なるいい話キレイな話で終わらさずに、見ている私たちが何をして何をしてきたかを振り返りながら子供だった自分・大人になろうとする自分・大人になってしまった自分を見つめ返してほしい。
そうすれば、何を見ようとして、何を見なければいけないのか少しはわかるような気がしてくる。そして大切なのは結論を出すことではなくて今の自分がどのようにして自分になったのかを考えることだと、この作品が言ってる気がする。

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テーマ: あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
ジャンル: アニメ・コミック



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