物理的領域の因果的閉包性


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視点と表現の多様化

2012-05-06 その他


アニメを語る場合、見て感じたことをそのまま表現することを主観とすると
他人または自分の意見というフィルターを通して表現することは客観ということになる。
具体的に言うと、意識しなくても作品から見えてくるものと意識的に見ようとすることで見えてくるもの。
大きく分けるとこの2つになる。無意識であるか意識的であるかの違い。ここでまず視点のずれが出てくる。

もし自分が病気になって病院に行くとする。診察をしてもらって薬をもらって帰る。
医者の言うとおりにして病気が治ればいいが、どうしても治らないので違う病院に行って結果治ったとする。
医者の考えが間違っていたのか、薬が合わなかったのか、すでに治りかけだったのかは自分ではわからない。
しかし先に行った病院は悪くて、あとから行った病院は良いという判断をする。経験がある方もいると思う。

医者というのは自身が学んだこと、経験したことを元に診察をする。当然私的解釈も含まれる。
薬がすべての病気を完治させればいいが、それを選ぶのは医者であり人間である。間違いがあって当たり前。
では病院をアニメ作品に置き換えてみる。医者は監督、看護師はその他スタッフ、薬は絵や物語。
研究や開発が進みいろんな薬が存在するように、いろんな絵や物語が存在する。それを生み出すのは人間。
すべての病気が1つの薬で治らないように、病気に合った薬が求められる。つまり病気はニーズであり時代。
通常、病気が自分の意思では発症しないように、自分の意思では大衆や時代は動かせない。

ここでやっと登場するのが表現。自分に見えたもの、見えてくるものをどういう風に表現するのか。
自分のチカラで医者は変えられないし、病院も変えられない。しかし医者や看護師、薬を作る人にはなれる。
医学に関われなくても関わる人たちの中には意見を聞いてくれる人がいる。聞いてくれなくても言いたい。
アニメを語りたい人の心理ってそういうもんだと思う。しかしみんなと同じ意見は伝わらないし消えやすい。
だから表現の多様化が必要となる。文字や言葉を通して何が表現出来るのか、何を伝えることが出来るのか。

個人的に何が出来たかという結果ではないと思ってる。見えた、見たい、書きたい、言いたい、という感覚。
無意識であれ意識的であれ、病院を選ぶのもお金を払うのも自分。病院を信用するか医者を信用するのか。
視点や表現方法も含め自由な部分はたくさんあると思う。表現することで何かが変わるという保証はないけれど
自分なりの表現をしたことで何かが得られることはある。実際に作品から多くのものをもらっているから。
感じて、考えて、文字や言葉を尽くして生まれる表現は、同じように見えても固有のものになるはずだから。


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テーマ: 考察
ジャンル: アニメ・コミック



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