物理的領域の因果的閉包性


マイベストエピソード10選

2016-08-29 ベストエピソード


元記事:マイベストエピソード10選 - 宇宙、日本、練馬 @AmberFeb201



・ 『MASTERキートン』CHAPTER:5 「屋根の下の巴里」(小島正幸監督、1998年)


「Mr.キートン、立派になったなぁ」


 巴里の社会人向けの大学で教鞭をとるキートン。校舎の取り壊しもあって、なかなか思うように講義を進められなかったり、聴講するおじいちゃんから若干厳しい評価を受けたりするなかで、思い出すのはかつて恩師、ユーリー・スコット先生の姿。

 思いでに背中を押されたキートンが学ぶことの意味を訴えかけ、そして最後にはその恩師と再会を果たすこのエピソードは、原作でも屈指の名エピソードなのだけれど、アニメ版では1分たりとも講義の時間無駄にはしなかった恩師の姿と、なあなあで最後の数分で切り上げてしまうキートンとの姿がよりはっきり対比される。それによって、キートンが最期の最後まで講義をやりきることがすなわち、ユーリー先生の立っていた場所に立つことなのだ、ということが強調される。

 それでもなお、かつての恩師はまばゆく、その前に立つとどうしても至らない自分のことが恥ずかしくなってしまうんだけど、それでもやっぱりうれしくもあって、みたいな複雑な感情が入り混じるラストの再会シーンがとても好きで、名篇ぞろいの『MASTERキートン』アニメ版のなかでも一番好きです。ぼくはもちろんキートンみたいに優秀な人間じゃないんだけれど、強く勇気づけられるような、そんなエピソード。アニメ版ならではっていったら、原作を見事に裏切ってみせたCHAPTER:22「シャトー・ラジョンシュ1944」もすんばらしいわけですが、個人的な思い入れはこのユーリー先生の挿話のほうが圧倒的に強いです。



・ 『カウボーイビバップ』Session #13「ジュピター・ジャズ(後編)」 (渡辺信一郎監督、1998‐9年)


「旅の途中で死ぬのもいいさ。もう一度戻りたいんだ、あそこへ。少しでも近くへ」


 「運命の女」ジュリアの影を追って、雪の星へと降り立つスパイク。そこで展開されるのは、宿敵ビシャスをめぐるドラマ。

 『カウボーイビバップ』もとにかく全編素晴らしいのでどれを選ぶかって言ったらその時の気分に大きく左右されてしまうわけですが、とにかく僕は特殊エンディングに弱い。思えばここで過去に縛り付けられてやがてはそこに還ってゆくグレンの姿は、最終話でたどり着くスパイクの運命そのものだという気がして、それを送る側から、此岸に残される側から描いたこのエピソードは最終話の裏面を描いているともいえるんじゃないかなーと。それはスパイクのいなくなった世界を生きねばならないスパイク以外の人間たち、すなわち僕らの視線そのものという気がして、そんな意味でも気分的には最終話といっていいんじゃないでしょうか。何を言ってるのかわかりませんが。



・ 『ラーゼフォン』第3楽章「二人の街- Welcome to our town -」( 出渕裕監督、2002年)


「なんでもかんでも簡単に信じないほうがいいわ、子供じゃないんだから」


 東京ジュピターを脱出した神名綾人と紫東遙。廃墟の街でふたりぼっちになった彼と彼女は、距離感を探りつつ連絡手段を探したり現状を確認したりするため、歩き、食べ、眠る。

 大量の人々を涙の海に叩き込んできた第19楽章「ブルーフレンド- Ticket to Nowhere -」が話題に上ることの多い『ラーゼフォン』ですが、僕は綾人君がニライカナイの島というまったく別の環境に馴染めなかったり馴染んだりする序盤の雰囲気が結構好きで。この第3楽章では綾人と遥の関係性がいまださだまらず、さぐりさぐりのおねショタ的な会話劇が展開されたりするのがよくて、二人だけの街、という背景がまたよい。なんとか大人として振る舞おうとしてるんだけど油断するとかつての思い出が胸に去来してしまっているのだろうな、と感じさせてしまう、自転車二人乗りのときの遥さんの表情がまたよさ。ぼくがおねショタ的なものに目覚めてしまったのは『ラーゼフォン』、なかでも絶対このお話の所為で、それとレトルト食品は缶詰より賞味期限が短いことを教えてくれたのもこのお話。

 あ、この企画の対象外ですのであれですが、僕が『ラーゼフォン』でもっともよさを感じるシークエンスは、劇場版『ラーゼフォン 多元変奏曲』のアバンで、ここの坂本真綾さんの演技はベストアクトではないかと思っています、はい。



・ 『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』第14話「左眼に気をつけろ POKER FACE」(神山健治監督、2004-5年)


「そう、俺は最初から、少佐のポーカーフェイスに嵌められていたんだ」


 義眼のスナイパーが語る、その眼の来歴。

 『攻殻機動隊 S.A.C.』シリーズは非常に思い入れが強くてどの話数を選ぼうか迷ったのですが、1話完結のエピソードのなかでもひたすらかっちょいいサイトーのお話を選びました。9課以前の9課の面々が描かれるこの話数は、草薙素子とサイトーが対決するお話なわけだけれど、左眼の喪失という決着があらかじめ提示されているにも関わらず、どちらが勝つのかわからないサスペンス感。そして厳然と現れる、勝者と敗者の、紙一重だけれども、同時に圧倒的でもある、その隔絶。

 相対した敵の目線から語られることで、草薙素子という人間の底知れなさがあらためて浮き彫りになるような、サイトーを語り手にしているけれどもサイトーの物語というよりは草薙素子がより多面的にみえてくる、そういうエピソードでもあるのかなと。負けたのにやたらとかっこいいサイトーがずるい。



・ 『怪 〜ayakashi〜』第11話「化猫 大詰め」(中村健治監督(シリーズディレクター)、2006年)


「誰も誰かを縛ったり、命じたりはできないからな」


 大名家の娘の嫁入りをきっかけにして現れた化け猫。人びとを屋敷に閉じ込めた化け猫は、その恐怖によって屋敷の人々のおそろしき性を暴いてゆく。化け猫を祓うため、その形・真・理を探って薬売りは闘う。

 この作品世界の物の怪は、人の業によって生み出される。その形・真・理を探ることは、すなわち人の業を紐解いていくことに他ならない。密室サスペンスの舞台とかした屋敷で、殺戮が繰り返された末、ようやく明らかになる、化け猫を生み出したあまりに凄惨な屋敷の宿業。とらわれの姫の声を音ではなく黒字に白抜きで映し出された文字で提示する演出は、絢爛な空間設計と残酷に対比されて姫の凄惨な運命を強調する。

 初見のときの衝撃がいまだにありありと思い出せる一篇。続編である『モノノ怪』も名篇ぞろいだとは思うのだけれど、これほどショッキングな感情を喚起するエピソードはなかったかなーと。



・ 『涼宮ハルヒの憂鬱』(第1期)第12話「ライブアライブ」(石原立也監督、2006年)


「なにやってんだあの野郎!」


 自主制作映画をなんとか完成までこぎつけたSOS団に、もはや学園祭でやるべきことなど残ってはいないかに思われた。しかし、涼宮ハルヒの学園祭がそれで終わるわけがなかった。平和に学園祭をうろつき体育館でうとうとしていたキョンは、バニー姿でステージにたつ涼宮ハルヒの姿にくぎ付けになる。

 言わずと知れたハルヒのライブ回。アニメのキャラクターがこんなに本物っぽく楽器を演奏するってアリかよ!という初見の衝撃はいまだにありありと思い出せるし、ハルヒ自体が僕をアニメに惹きつけたっていうのもあいまって非常に思い入れの強い回。

 今見返すと、学園祭当日のキョンの「なにもやってなさ」がなんとなく新鮮でもあって。知り合いのところにとりあえず顔出して、ぶらぶらして、ぐだぐだして。創作物で学園祭とか出てくるとなにがしかのことが起きちゃうじゃないですか、大概の場合。でも、学園祭って場は非日常だけれども、そのなかで案外劇的なことなどあるわけじゃなく、「ふつう」に一日を過ごすんじゃないか。この「ライブアライブ」でキョンが体験するのは、「身近な人間の全然知らない姿を知ること」だけだともいえるわけで、これって私たちが体験する「ふつう」に過ごす学園祭のなかでも起こりるることなんじゃないか、そんなことを思ったりしました。そんな意味でも、ハルヒがどうやら「ふつう」のことを受け入れているらしいという兆しがほのみえるこの回は、非日常すら日常を持ち込んでいるという意味でも作品内で大きな意味をもつのかな、という気がします。

 せっかくなので以前書いた記事のリンクを貼っときます。
暗喩としての校舎――『リンダ リンダ リンダ』、『ここさけ』、「ライブアライブ」における日常性



・ 『精霊の守り人』第8話「刀鍛冶」(神山健治監督、2007年)


「人を斬らず、ただ人の業だけを断ち切る、それが私の考える究極の名刀です」


 王子を託された女用心棒は、刃こぼれしてしまった槍のメンテナンスのため、知り合いの腕利き刀鍛冶のもとを訪ねる。しかし、街でささやかれる女用心棒の噂は、刀鍛冶のもとにも届いていた。王族に弓を引くものの手助けはできない、と告げる刀鍛冶だが、女用心棒は一歩も引かない。そんななか、折わるく、女用心棒と剣を交えた者たちが刀鍛冶のもとを訪ねようとしていた。

 時折炸裂するアクションが魅力でもある『精霊の守り人』ですが、アクション以上に会話劇によって物語をドライブさせているという気がして、その会話劇の魅力が凝縮されたエピソード。原作の展開から離れ、アニメオリジナルのエピソードが展開され始めたあたりでこのエピソードを差し挟むあたり、制作陣も相当の気合いで世に送り出した挿話だったのではないかと推察する((原作が手元にないので記憶違いかもですが))。鍛冶屋を舞台に、刀鍛冶の老人は女用心棒を助けるのか、という点を一つのフックにして、究極の名刀をめぐる問答が展開される。そのなかで刀鍛冶が語る、女用心棒とよく似た境遇の男の物語。

 後半で再び、女用心棒バルサの境遇は語られるんだけれど、過去の回想が映像として提示されるそちらと同様の存在感を、徹頭徹尾刀鍛冶の声によって作り出したこの回はすげえと思うわけです。 



・ 『東のエデン』第11話「さらにつづく東」(神山健治監督、2009年)


「この国には、頭のいい連中がいっぱいいるのに、損な役回りやるやつがいないんだ」


 日本をリセットするなんていうバカみたいな、でも切実でもある理由のために放たれたミサイルを打ち落とし、滝沢朗は救世主になる。

 100億円で日本を救え、さもなければ…というゲームに巻き込まれているらしい滝沢朗と、ふつうの少女森美咲との交感を軸に、日本の空気に戦いを挑んだ『東のエデン』の最終回は、理屈なんていらない画の魅力に充満していて、それだけでなにか救われたような気分が生まれてくる稀有なエピソード、だと思う。ミサイルを打ち落とす男、ただそのビジュアルの圧倒的な力は、ああこれがきっと救世主、あるいはヒーローの姿なんだろうと、なんとなく確信させてしまう。

 もともとこのミサイル迎撃のアイデアは劇場版のラストを飾るはずだったのだが…ということは神山健治監督はいろんなとこで言ってるんですが*1、このシークエンスがもし劇場でかかっていたからもうとんでもないことになっていたのではと空想してしまうと同時に、いやこの場面がテレビ版にあったからこそ!という気もして。これと対比して劇場版の静かなラストが結構好きだったりするし。それはともかく好き。

 なんかこの文章を打ち込んでいるまさにそのときに、破滅を願う欲望とそれに対峙するヒーローって軸で『輪るピングドラム』と『東のエデン』は結びついたりつかなかったりするんでないか、とか思ったりしたんですが、それはまた機会があったら書きましょう。はい。

 せっかくだしかつて書き残した感想のリンクを貼っときます。
滝沢朗の残響――『東のエデン』感想



・ 『続 夏目友人帳』第10話「仮家」(大森貴弘監督、2009年)


「ここは、君の家だって言っただろう」


 多くの人が見ることかなわぬあやかしを見ることのできる少年、夏目貴志。彼が身を寄せる藤原家を狙うあやかし、仮家が現れ、夏目の大切な人たちに危機が迫る。

 居住者を不幸にすることで家を乗っ取ってしまうあやかし仮家との対決を描いたこの一篇は、それと並行するかたちで、かつて仮家と戦い、それを退けた夏目の祖母、夏目レイコの過去が語られる。いわば夏目とレイコの運命がはっきり対比されるエピソードでもある。「どこにも居場所がなかった人間が、次第に居場所をみつけてゆく」物語が夏目貴志の物語、『夏目友人帳』の基調にあるとすれば、おそらくは、「どこにも居場所がないけれども、それでも生きた」物語が、作中で断片的に語られる過去から推察される夏目レイコの物語。

 しかし夏目レイコの結んだ縁が、はっきり夏目貴志の物語を駆動させるこのエピソードなんかから推察するに、彼女の物語は孤独であっても不幸ではなかったのではないか、というようなほのかな予感が漂い、なんとなく救済が与えられたような気分がある。夏目レイコがたぶん見つけられなかった居場所を、夏目貴志が得ることで、この一篇は閉じられる。夏目が藤原夫妻にとって間違いなく家族なのだ、ということは作中で何度も反復されるけれども、この回のラストが一番印象に残っている。

 原作は未読でアニメ3・4期も未視聴なんですが、自分のなかでこのエピソードで『夏目友人帖』の物語はなんとなく完結してしまったような気分があって、それくらいエモーションを刺激された回。2期より1期のほうが全体としてのアベレージは高いような気がするんですが、いやーこの回ほんと好きですね。



・ 『Fate/Zero』第24話「最後の令呪」( あおきえい監督、2011-2年)


「僕は、僕は、君を殺して、世界を、救う」


 聖杯をめぐる血みどろの闘争の最終局面。宿命の敵同士が、ついに対決する。

 互いが互いを宿命の敵として認識する二人の対決が盛り上がらないわけがなく、『Fate/stay night』への接続を度外視するならばこの二人の戦いのためにあらゆる事物が編成されていたとすらいいうる(と勝手に思っている)『Fate/Zero』は、その大一番を期待をはるかに上回る熱量で描き切ってみせ、しかもそこから急転直下、世界の命運を握る選択へとノンストップで流れ込む。初見の衝撃未だ忘れがたく、選ばせていただきました。


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