物理的領域の因果的閉包性


アンニュイな気持ちになる、アニメ・マイベストエピソード5選

2016-08-31 ベストエピソード


元記事:アンニュイな気持ちになる、アニメ・マイベストエピソード5選 - 俺がいる。 @pumpkin_crack



戦国コレクション COLLECTION-8

『Regent Girl』


脚本:金澤慎太郎 絵コンテ:柴田勝紀 演出:金子伸吾

たった一話あればアニメはなんでも出来る、と表明してのけた、異色のパロディオムニバスアニメ『戦国コレクション』の中でも、最大のインパクトを誇るお米の国の秀吉。

異世界から現代日本に迷い込んだ戦国武将・豊臣秀吉(♀)はお米が大好き。ある日、豊作祈願の舞を踊った山頂からおむすびを落としてしまう。おむすびを追いかけ穴に落っこちた秀吉は、米粒たちの暮らす不思議な世界に迷い込む。

転がるおむすびのように止まらず変転し続けるシュールな世界と、虚実を巡る禅問答が可愛いらしく綴られる。

奇異であることをさも奇異であると見せびらかしがちな深夜アニメの世界にあって、キッズアニメやカートゥーンのように肩肘張らず、ただ気楽に奇異であることを満喫し、視聴者を異世界に誘ってくれる一篇。秀吉の飄々としたキャラが本話数の「自由さの強度」に一役買っている。

数々のパロディやダジャレでおふざけを装いながら、実は単に煙に巻く会話と突拍子も無い物語が展開している訳ではなく、「なぜ私達はフィクションを創り、フィクションを享受するのか」という究極の命題に向き合ってキチンと回答を示した誠実な30分。一言も無駄が無い。また、フィクション論であることによってオムニバス風の本作品全体を通したテーマ性をも語り得ている。

脚本の金澤はライトノベル作家水城正太郎の別名義で、やはり本作同様お米大好きなヒロインが登場し何重にもメタでニヒリスティックで抽象的な物語『いちばんうしろの大魔王』を執筆している。十数巻に及んで執筆した自作長編の要素をわずか30分に凝縮してみせた、謀らずか謀ってか氏の代表作とも呼べる一話。

柴田勝紀繋がりで作画の柔らかさと世界の抽象度は『輪るピングドラム』にも通じ、または早過ぎた『ガールズ&パンツァー』とも呼べる一幕も。



パパの言うことを聞きなさい! 第9話

『ちょっとマイウェイ』


脚本:あみやまさはる 絵コンテ/演出:池端隆史

二児の親であるバツ2の男と結婚した姉。彼女自身も旦那との間に娘をもうけ、幸せな家庭生活を送っている。そんな状況に祝福と歯がゆさを抱いていた大学生・祐太だったが、ある日、姉夫妻を乗せた飛行機が墜落して2人は死亡する。やはり幼くして両親を亡くし姉に育てられていた祐太は、遺された三姉妹がバラバラになることを恐れ、保護者として八王子の狭いアパートに3人を引き取る決意をするのだが、学生生活とバイトと子育てとで日々は多忙を極め---

ロリコン向けサービスショット満載で美少女お色気コメディの体裁を繕ってはいるけれど、とても不思議なバランスを保った『パパ聞き!』は、誰もが誰かのために無理をしながら、ギリギリのバランスで笑顔を保つ「作られた家族」の危うい幸福を肯定している。

そもそも三姉妹の母親がそれぞれ異なるため、祐太が介入しなくてもこの家族には元々つきまとっていたその「それぞれの無理」が根底にしかれており、この第9話では、本編中もっともスポットの当たることのない、いつも平然として家族のドタバタを見守り、だからこそその無理は人知れぬものがある次女・美羽(みう)の日常が描かれる。

姉の空と共に毎朝ダッシュで通学電車に乗り込む姿から始まり、小学校でもおすましをして自分を取り繕っている美羽の見栄(本編中、彼女が素の自分をさらけ出せる環境はどこにも無いのだ)も、満員電車で踏まれた靴の「汚れ」によってその背伸びを周囲に露見してしまう。

『パパ聞き!』は、基本的に登場人物が全力で意識的に「ドラマを起こさない 」ことを描いたドラマである(各話のタイトルが往年の連続ドラマから来ている皮肉がスパイス)。大きな展開は4人が同居を決める最初の3話で終わっており、そこから先は、それぞれの我慢によってここに残された幸せを守り切る、そう決めた子供たちの日常モノと化す。

だから、家庭でも学校でも無理をしている美羽が、よくあるシナリオのお約束通り感情を爆発させることはない。代わりにここに現れるのは、祐太の大学のサークル仲間である遊び人の男・仁村だ。

美羽は自分が仁村に同情されている事を知っている。仁村は美羽が背伸びしている事を知っている。だけど、互いにとぼけたフリして一日だけの恋人ごっこを行う。

美羽は自分の家庭の一歩外側で、祐太の友人がこうして見守ってくれていることを知る。私の無理も、きっと特別なことではないと。この一日を経たからといって、美羽の小学生にのしかかるにはあまりに重たい日々の苦労は今後も軽減することはないだろう。それでもあの家に帰ると決めた。

仁村とデートした池袋サンシャインシティーの屋上から、かつて過ごした家も今の家も同じ空の下にあることを目にして、美羽は今の日常を「選んだ」自分を再確認する。

怒鳴ったり泣きじゃくるばかりがドラマじゃない。怒鳴らないことで、泣きじゃくらないことで、こうして続いていく通奏低音のようなドラマがこの空の下には溢れている。脇役が脇役として日常に留まるために過ごしたささやかなひととき。そこに30分費やされる贅沢。

制作会社feel.の、わけても及川啓が係わるアニメの「夕焼け空」がいかに淡くて儚くて美しい空気を創り出すかは、『アウトブレイク・カンパニー』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』『この美術部には問題がある!』を見ればわかる通り。助監督として参加した本作でもそのマジックアワーの効果は最大限に発揮されている。

逝去された松智洋先生への追悼の意も込めて。



異能バトルは日常系のなかで 第7話

『覚醒』ジャガーノート・オン


脚本:樋口七海 絵コンテ:望月智允 演出:宮島善博

所謂ザ☆「声優の本気」として早見沙織の長台詞が有名な回。

以下、一部抜粋。

実際にはもっと長く、一息にまくしたてる。

わかんない...わっかんないよ
寿(じゅー)くんの言ってる事は一つも分かんない
ブラッティって何がカッコいいの?
血なんてイヤだよ痛いだけだよ
罪深いってなんなの?
罪がある事の何がいいの犯罪者がカッコいいの?
正義と悪だとなんで悪がいいの?
何で悪いほうがいいの、悪いから悪なんじゃないの!?
右腕がうずくと何でカッコいいの?
『自分の力が制御できない感じがたまらない』って何それただのマヌケな人じゃん!
ちゃんと制御できるほうがカッコいいよ立派だよ!
普段は力を隠していると何が凄いの?
そんなのタダの手抜きだよ、
隠したりしないで全力で取り組む人の方がカッコいいよ!
どうして二つ名とか異名とか色々つけるの?
いっぱい呼び名があったって分かりにくいだけじゃん
英語でも何でもカタカナつけないでよ覚えられないんだよ!
ギリシャ神話とか聖書とか北欧神話とか日本神話とか
ちょっと調べたくらいでそういう話しないでよ!
内容もちゃんと教えてくれなきゃ意味がわかんないよ
教えるならちゃんと教えてよ!
相対性理論とかシュレディンガーの猫とか万有引力とか
ちょっとネットで調べただけで知ったかぶらないでよ
中途半端に説明されてもちっとも分からないんだよ!
ニーチェとかゲーテの言葉引用しないでよ
知らない人の言葉使われても何が言いたいのか全然わかんないんだよ
自分の言葉で語ってよ!
お願いだから私が分かる事話してよ
中二ってなんなの中二ってどういうことなの
わかんないわかんないわかんないわかんないわかんなーい!
寿くんの言う事は昔から何一つこれっぽっちもっ 分かんないんだよっ!


勘違いして欲しくないのだけれど、ここまで切羽詰まって彼女=早見演じる鳩子が繰り広げているのは「中二病ラノベのテンプレート批判」ではなく、早見沙織の演技が素晴らしいのはこの長台詞を情感を欠かすことなく叫びきる技術力の高さによるものでもない。

鳩子自身も認識出来ていない彼女の本音を、ここに至るまでの丁寧な段取りと、この芝居場でのアニメーションと早見の演技と長い長い台詞が相俟って表現しているから。

それはただ一言、「私を見て」と。



中二病の少年・安藤寿来と彼を囲う少女たち文芸部一同の身に、ある日、本物の異能力が宿ってしまう。かと言って戦うべき相手が現れる訳ではなく、たまに異能力を使うだけの日常モノが続いていくのが本作の概要。

ここで実際に主人公・安藤を取り巻いているのは彼が好きな異能バトルではなく、彼にとっては興味の範疇外である美少女ハーレム。美少女ハーレムでいつだって割を食うのは、主人公と過ごした時間が長い分だけ、その焦りにより強い痛みが宿る幼なじみキャラで、そして鳩子はこの物語の幼なじみポジションに当たる。

オタク趣味を持ち合わせていない鳩子は安藤の中二病トークに加われないのだが、この日は久しぶりに安藤の家で夕食を作ることになった。家事という得意技でなら、自分は安藤の日常に寄り添える。

なのに、せっかく安藤家にお邪魔して台所で得意の肉じゃがを作っていても、安藤が気にしているのは部活仲間の灯代のことばかり。それには安藤なりの理由があるのだが、鳩子から見れば灯代はライトノベル志望作家。つまり、安藤とオタク趣味を共有できる女の子。

せめて灯代とどんなやりとりをしているのかやんわり聞き出そうとした鳩子に安藤から返ってきた言葉、

「どうせお前にはわかんねえだろ」。

肉じゃがを作る鳩子の手から、こぼれ落ちるお玉。

そしてあの長台詞が爆発する。

カメラもキャラもパースも動かしまくるTRIGGER制作でありながら、本話数の絵コンテは『絶対少年』を「フィックスだけでやりきってみたかった」などと語る志向の持ち主・望月智充。

作画に潜在する躍動をショットが抑制してしまう本作全体に宿る不完全燃焼感がこの話数に限ってはプラスに働き、鳩子の中に沸々と溜まり続けるフラストレーションの顕在化に繋がっていく。

AパートとBパートの冒頭でそれぞれ「かつて鳩子が非常ベルを押してしまって学校にパニックを起こし泣きじゃくっていたら、安藤が助けにきてくれた」過去が繰り返されるが、Aでは鳩子の視点、Bでは安藤の視点で綴られる。鳩子にとっては長年の想いの蓄積の上にのしかかった「お前にはわからない」であったが、Aパートの終わりで鳩子の爆発を食らった安藤にとっては、Bパートで過去を振り返るまで、ただその場しのぎのなんでもない一言でしかなかった、ありふれた齟齬であったと示される。

このBパートで、鳩子を見失ってしまった安藤は友人の相模、そして逃げ出してしまった鳩子は桐生という不思議な青年と出会う。実はこの物語、非日常世界での異能バトルは実際に起こっていて、ただ肝心の主人公たちだけがそれに気づいていないというトリッキーな世界観の上に成り立っていたことがシリーズ後半で「視聴者にだけ」明かされていくのだが、その「異能バトルを非日常系で」展開している事を実は知っていたのが相模で、そしてむしろ異能バトル物の真の主人公とも言える中心人物が桐生なのだ。日常モノのテンプレートを一時期だけとはいえ破壊してしまった鳩子と安藤が、それぞれ日常の裏にひそむ非日常に一瞬の邂逅を見せる。相模は安藤と鳩子の関係性(つまりテンプレ「幼なじみ」設定)の不自然さを説き、桐生は鳩子が否定した「中二病テンプレートのWHY?」に対する回答を語る。桐生の語るそれは、イコール鳩子が本当に否定したかった「ハーレム物テンプレートのWHY?」への回答、つまり自分の本心へ至る回答にもなっているという、原作の功績も大きいのだろうが巧すぎる脚本。

人の幸せ。それは、『選ばれる』ことだ。
人は誰にでもなりたいんだよ、『選ばれる者』にな。


物語の中心にあるこのエピソードこそが、日常と非日常が反転しそうでしない本作における、何か決定的な亀裂が入りそうで入らないギリギリのスリルを見せた真のクライマックスだった。



神のみぞ知るセカイⅡ FLAG.7.0

『Singing in the Rain』


脚本:倉田英之 絵コンテ:出合小都美 演出:駒屋健一郎

傑作マンガのアニメ化としては決して成功したとは言いがたい作品。しかし原作が傑作となるにあたって本話数がフィードバックしていることもまた事実であろう、理想的な原作とそのアニメとの結節点。

現実の少女たちを自身の得意なギャルゲーの攻略ヒロインに見立てて、そのバロメーターを見極め自らとの恋に「落とす」ことで、少女たちの体に逃げ込んだ旧世界の悪魔を追い払う役目を負うことになった「リアルなんてクソゲーだ」が信条の孤高のオタク・桂木桂馬。

彼を戸惑わせる最大のヒロインが「小阪ちひろ」で、当該エピソードはちひろ編の最終話にあたる。

今までは明確な悩みを抱えたヒロインの問題を颯爽と解決することでヒロインの心を解き放ってやればよかったし、桂馬自身が王子様役となることでヒロインを恋に落とすことも簡単だった。しかし、このちひろは何に悩んでいるのかもわからない。しかも次から次へと別の男に目移りして、ヒロインらしい矜持を守ってくれない。

仕方なく桂馬はちひろを落とすのではなく、ちひろが今片思いしている男を落とす為の攻略法を探る方向に切り替えるが、ちひろはその男にさえ真剣にならず桂馬の話を笑って聞き流す。ヒロインは純情であるべきだという固定観念に縛られた桂馬の苛立ちは募っていく。

アニメ版は渡辺明夫によるいかにもヒロインめいた目の大きなキャラデが最大の失敗を見せてしまってはいるが、原作におけるちひろはいかにも「モブ生徒」然としたキャラクターとして早々に登場しており、そんなモブ少女が最終的に主人公と対比される最大のヒロインと化していく過程が全体の中で大きな柱となっている。

ありきたりで、ドラマもバロメーターもなくて、一途ですらない少女。

本話数Aパートでは、そんなちひろの登校風景が彼女の鼻歌と共にゆったりと綴られる。雨上がりの街。絶えず水たまりや曇り空が映り込むクリアではない景色の中、不要となった傘をもてあそんでうろつく少女。明確なドラマと出会えない、あてどない日常を生きるありふれた人。この時彼女が口ずさんでいる曲「初めて恋をした記憶」がこののち、原作でも最大の意味を持つ。

そのフィードバック部分が映像化されるまでには第3期の痛切な最終回を待たなくてはならないのだが、アニメは1期、2期で各ヒロインを丁寧に描きすぎたために原作の展開を追うことが出来ず、3期の冒頭で物語の大部分を完全にダイジェストとして省略してしまっている点からやはりアニメ化成功とは言いがたい。

言いがたいが、失策の数々に敢えて目をつむるとすれば、やはりアニメ化が意味を持ったとすれば本話数なのだ。

他の話数ではテンポの悪さや、原作の絵的な魅力を汲めていないのにパロディ要素だけはやけに踏襲する監督のセンスの無さが目について多少いらつきも覚えるのだが、アニメ版の間延びした作りがこの「雨上がりの街をただうろつくちひろ」という、何も起こらないのに全てが描かれる贅沢なシーンを生み出したのもまた確か。勿論、倉田脚本は確信犯で狙ってのことだろう。

「リアルなどクソゲー」を信条とする桂馬に対し、ヒロイン側の少女たちは誰もみな最後には「リアルを生きる」覚悟を決めていく、思えば今までの『神のみ』とはそんな話であったことを、このちひろ編を通じて桂馬も、そして視聴者も気づく。その強さの象徴として、冴えない街で傘をもてあますちひろの描写はある。

ちひろこそが誰よりも悩んでいたと桂馬は気づくが、それは実際にちひろが他のヒロインより深く悩んでいるということではない。ただ、桂馬にとって初めてリアルに共感しうる悩みだったのだ(その回答は続く「長瀬純」編で示される)。

ゴールすることも、クリアすることも出来ない、茫漠とした日常を生きるということ。

宙ぶらりんな世界で、虚空に傘を振り回すこと。

リアルはクソゲーだ。しかし、無意味な理想を手放す訳にはいかない。

存在しないゴールに向かって、バロメーターに目を凝らし続けろ。

二人にとって今後重要な意味を持つ、港に停泊した遊覧船の上で桂馬は改めてちひろを恋に落としにかかる。甲板の高低差を使った二人の立ち位置。ちひろの傘の使い方。ごく自然で作為を感じさせないが、男女の距離感を映像としてスリリングに伝える出合コンテの絶妙な手腕を堪能する上でも最高の一話。



みなみけ おかわり 4杯目

『片付けちゃっていいですか?』


脚本:鈴木雅詞 絵コンテ:細田直人 演出:雄谷将仁

両親不在、三姉妹だけで楽しく暮らす長女・ハルカ、次女・カナ、三女・チアキの三姉妹。彼女たちと、それぞれ通う高校・中学・小学校の仲間たちとの、楽しくドタバタ過ごす日々―――

人気シリーズ『みなみけ』の第2期。実際には2つのアニメスタジオに同時に1期ずつ作らせるという試験的な企画だったのだが、後に日常モノの雄となる太田雅彦監督がスタジオ・童夢で作り上げた1期が大人気を獲得した為に、ヒット作『SHUFFLE!』のシュールな画風を引きずった細田直人監督×スタジオ・アスリードによる2期は厳しい評価に晒されてしまった、、、と、聞く。後追いでまとめて見たので、放映時の空気は知らない。

ちょうどアニメを見始めた頃の自分にとっては、おそらく初めて触れた日常モノが『みなみけ』シリーズだったので、そうした問題にはまったく気づかず、なんなら今見れば露骨な作画の違い(なにせ、メインとなる南家の外観さえ違う)すらわからないで見ていた。

それより新鮮だったのが、1期では全編明るくライトで照らされているような、コメディとして割り切って見れる表層的な世界だったものが、冬の陰鬱な空気を全面に取り込んだこの2期では、一気に南家の生活がリアルに近いものへと転じたことだ。ショーウィンドウ越しのユートピアが、隣人の生活をのぞき見るようにグッと距離感を縮めてきた。

2期オリジナルキャラクターで、たしかに笑いには一切還元しないし、コメディ世界にひたすら泥を塗るような陰気な少年フユキの存在はしかし、2期を叩く視聴者たちの中にすら、自然と南家を「モニターの向こう側」の存在から「気になる隣人」へと変化させるのに一役買ったのではないかと思う。フユキへのヘイトの分まで、南家の「生活」への愛着度はより増したろう。

あえて断言すれば、みなみけシリーズの長寿化最大の功労者は、フユキであった。異論は認める。

皮膚感覚レベルでの天候や気温とは無縁に思えた1期の世界に対して、2期は絶えず街の気温をひしと肌で感じながらキャラクターたちが生きている。停電の日の雪合戦を描いた第6話の方が2期のテーマ的にもより重大なのだが、個人的に今でも忘れられないのがこの4話目。

普段は温厚で理想的な母性を持った長女・ハルカが、本話数の冒頭では単純にガミガミした母親同然に妹2人を叱り、隣りのフユキ君を見習いなさいと南家総出の町内清掃参加を決めてしまう。これにそれぞれの友人たちも巻き込まれて、真冬の早朝で寒さに凍えながら町のゴミを清掃するという、世にも地味な30分が展開する。

クライマックスは「川辺に不法投棄されていた、錆びて汚れた重たい冷蔵庫を開けるか否か」だ。なんだそれ。手はかじかんでいるだろう。こめかみのあたりもそろそろ寒さで痛くなってそう。うんざりだし疲れているから帰りたいのに、まだみんな残っているから帰るに帰れない。

もしかしたら何か面白いことが、まだ起こるかも知れない。

「日常モノ」というフレーズから外されていた本来の「私たちの日常」が、その嫌になる作業の中にあった。



どのアニメにも出てくる決まり切ったイベントじゃない。

張り切って夕食を作っている最中につい怒りが溜まって温かい晩餐を台無しにしてしまうこと。

疲弊した学校帰りに商業施設に寄り道して屋上から街を眺めること。

雨上がりの街で目的もなく傘をもてあますこと。

冬の朝早く、町内清掃にかり出されてうんざりすること。

私が見たい「日常モノ」は、そんな「とても地味で、けれど他のアニメや他のキャラクターでは代えの効かない時間」を描いてくれるものなのだ。

と。

好きなエピソードを選ぶ内に、そしてここまで書く内に、ふと気がついた。



関連記事


Copyright © 物理的領域の因果的閉包性 All Rights Reserved.